展示内容
以後の予定は順次追加します。 ◆観覧料:無料
大正時代の岐阜
明治と昭和に挟まれた大正時代(1912~1926)は、15年(実質は14年5か月足らず)と期間は短いですが、大正デモクラシー(1910~20年代)、第一次世界大戦(大正3[1914]~7年)、関東大震災(大正12年)など、歴史的な出来事が続いた時代です。
三溪にとっても、日本美術院の新進画家を招いた古美術鑑賞会の開始(大正元年頃)、インドの詩聖・タゴールの来園(大正5年)、息子・善一郎の結婚(大正6年)、大師茶会の開催(大正12年)と、充実しつつも激動の時期でした。
来年令和4年(2022)、すなわち大正111年にあたる年を迎えるにあたり、約100年前の岐阜はどのような光景で、どのような出来事があったのか、資料と共にふりかえります。

絵はがき 岐阜市役所(大正8年建築) 大正14年発行 岐阜市歴史博物館蔵
江戸時代の水害
原三溪が、明治24年(1891)の濃尾震災や大正12年(1923)の関東大震災後に、私財を投じ復興に尽くしたことはよく知られています。
こうした社会貢献の背景には、故郷での災害があったのかもしれません。三溪の故郷である佐波村は、境川・荒田川・長良川に囲まれており、幾度となく水害に悩まされてきました。この展示では、江戸時代の佐波村周辺の水害について取り上げ、水害に直面した人々がどのように対応したのかを紹介します。
描かれた鵜飼Ⅱ
鵜飼は、鮎に代表される川魚をとるための漁法ですが、平安時代には、貴族の邸内の池で行わせて眺めるなど、見て楽しむ風物として定着していました。また同時に、文学や美術的題材としても親しまれ、鵜飼を題材とした作品が数多く作られてきました。三溪もまた、長良川鵜飼を題材にした作品を残しています。
今回は、実際の漁の様子ではなく、鵜や篝火(と鵜舟など)を象徴的に描くことで表現された「鵜飼」の作品をご紹介します。

「鵜舟図」原三溪筆、大正2年(1913)
描かれた鵜飼Ⅰ
三溪は、旬の季節になるとわざわざ岐阜から横浜まで鮎を取り寄せるなど、岐阜の鮎を好んで食べていました。また、長良川鵜飼を題材に絵画作品を残しています。
鵜飼は、漁法としてだけでなく、文学や美術的題材としても親しまれてきた歴史を持っています。三溪の母方の祖父にあたる南画家・高橋杏村もまた、鵜飼がテーマの作品を描いています。
今回は、三溪より少し先輩で岐阜にゆかりのある作者の作品とともに、三溪が描いた長良川鵜飼をご紹介します。

「金華山と鵜飼」原三溪筆、昭和元年(1926)頃
南画の系譜~墨竹~
近代日本画における若手芸術家のパトロンとして知られる三溪。実は、岐阜の南画家・高橋杏村を母方の祖父に持ち、若いころから南画や漢詩文に親しんで育ちました。後に大コレクションを築く古美術品の収集も、初期は文人趣味的な南画や煎茶道具などが主で、次第に仏教美術や茶の湯道具に広がります。
一方で、三溪は数多くの自作書画を残しています。今回はその中から「墨竹」を主題にした作品に注目して、三溪の少し先輩にあたる、郷土・岐阜にゆかりの文人たちが描いた作品と共にご紹介します。

「風竹図」原三溪筆、大正2年(1913)
江戸時代の柳津地区 ~加納藩と柳津~
江戸時代において現在の柳津地区は、羽栗郡柳津村、厚見郡佐波村(正徳元年(1711)以降は上・中・下佐波村に分かれる)・高桑村から成り立っていました。その中でも、三溪が生まれた青木家のあった下佐波村をふくむ厚見郡は、加納藩領でした。明治4年(1871)の廃藩置県で加納藩は廃止され加納県となりますが、明治元年生まれの三溪が幼少期を過ごした明治初期は、欧米文化が広がる一方で、まだまだ江戸時代の仕組みや雰囲気が多く残っていた時期です。今回は、特に江戸後期~明治初期にかけての加納藩の成り立ちや藩主・藩領のあらましと、その中における柳津地区の様子をご紹介します。
美江寺の土鈴~養蚕豊饒を祈る~
三溪が横浜の生糸貿易商として活躍したように、近代日本にとって生糸は重要な輸出品でした。生糸の原料(蚕の繭)を生産する養蚕は、岐阜周辺でも盛んに行われ、美江寺で毎年2月に行われた美江寺祭り(別名 蚕祭り)には、県外からも養蚕農家が多く詣でました。境内の露店で販売された土鈴は、その音を聞かせると蚕が鈴なりに繭を作るといわれ、多くの人が買い求めました。今回は、美江寺祭り定番のお土産品であった土鈴をご紹介します。
引札~明治大正の商業広告~
引札とは、商品の宣伝や開店披露などを書いて配布した広告で、正月用に略暦(簡易カレンダー)をのせているものもあります。見て楽しいだけでなく、その図柄や文章から、当時の商売の様子や社会情勢・風俗を伺うことができる貴重な資料です。今回は、岐阜市の明治・大正期の引札に注目してご紹介します。
明治・大正の菊花展
菊は、中国では蘭・竹・梅とともに四君子と言われ、文人画の代表的な画題であり、三溪も菊の絵を残しています。また江戸時代に品種改良が進み、明治には菊人形興行が全国に拡大しました。個人栽培も盛んで、著名人による一般公開や情報発信も行われました。三溪も楽しんだであろう菊花展の様子を、当時の広告チラシなどからご紹介します。
三溪の書画
近代日本画における若手芸術家のパトロンとして知られる三溪。実は多くの自作書画も残しています。多くは、関東大震災の後、横浜の復興に専念し、美術品の購入や作家への支援を自粛するようになってからの制作で、自作書画の作品集『三溪画集』も出版しています。今回は、故郷岐阜に思いを寄せた作品を中心にご紹介します。