展示内容
以後の予定は順次追加します。 ◆観覧料:無料
柳津小学校の150年
令和4年(2022)は、近代学校制度が定められた学制が明治5年(1872)に発布されてから150年の節目の年です。また原三溪が幼少期に教育を受けた地元小学校・柳津小学校も、令和5年(2023)に創立150年を迎えます。小学校に残された資料などから、小学校の歩みとその変遷をご紹介します。

佐波国民学校日誌(昭和19~20年度)岐阜市歴史博物館蔵
三溪の師・山田省三郎
山田省三郎(1842~1916)は、佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)出身の県会議員・衆議院議員で、木曽三川の治水事業に尽力し、「治水翁」と呼ばれました。県会が開設される以前は、地元の尚友義校(現在の柳津小)の運営に携わっており、幼少の三溪も同校で省三郎の教えを受けたようです。
今回の展示では、「教育」と「治水」をテーマに、治水翁・山田省三郎の生涯と事績をご紹介します。

山田省三郎翁の像(岐阜市四ツ屋公園)
濃尾震災と復興支援
明治24年(1891)10月28日、マグニチュード8.0の大地震が濃尾平野を襲いました。岐阜市域においても、建築物の倒壊、地割れ、火災などによって、非常に大きな被害を受けています。三溪自身も、こうした被害に心を痛めて、自ら地元の佐波村へ見舞金を送り届けたようです。今回の展示では、震災の被害を物語る資料とともに、復興に至るまでの道のりについてご紹介いたします。

濃尾震災被害状況の広報版画
鵜飼Ⅱ
岐阜を代表する風物の一つである鵜飼は、三溪が生きた明治~昭和時代には観光資源としても大きく注目されていました。前回の「鵜飼Ⅰ」で紹介したように、三溪自身も鵜飼を描いた作品をいくつか残しています。今回の展示では、明治~昭和時代に発行された観光案内書などを中心に、鵜飼が当時の人々にどのように紹介されていたのかを探っていきます。

『岐阜みやげ』 長瀬寛二著 明治23年(1890) 岐阜市歴史博物館蔵
鵜飼Ⅰ
古くから文学などの題材になってきた鵜飼は、三溪が生きた時代には観光資源としても注目され、岐阜を象徴する風物となっていました。三溪自身も鵜飼をモチーフにした自筆作品を残していますが、その作品は多分にイメージに基づくものと言えそうです。近代に描かれた多様な鵜飼図から、長良川鵜飼へのイメージと実像をご紹介します。

原三溪『鵜舟図』 岐阜市歴史博物館蔵
三溪の絵画
原三溪は古美術の収集家として、また茶人として知られていますが、一方で同時代の画家たちを支援したパトロンであり、自らも絵を描き、漢詩など書作品を残しました。歴史博物館が所蔵する三溪の自筆絵画をご紹介いたします。

原三溪「竹生島図」 岐阜市歴史博物館蔵
三溪の書
花を描く~梅花~
近代日本画史において、若手芸術家のパトロンだったことで知られる三溪ですが、画家・高橋杏村を母方の祖父に持ち、若いころから南画や漢詩文に親しんで育ちました。
後に大コレクションを築く古美術品の収集も、初期は文人趣味に基づく南画や煎茶道具などが主で、次第に仏教美術や茶の湯道具に広がります。
また三溪は、数多くの自作書画を残しています。今回はその中から「梅花」を描く作品に注目して、三溪の少し先輩にあたる、郷土・岐阜にゆかりの文人たちが描いた作品と共にご紹介します。

山田訥斎「梅花鴛鴦図(ばいかえんおうず)」明治5年(1872)、岐阜市歴史博物館蔵
明治・大正のおひなさま
段飾りや親王飾りが主流となっている雛人形ですが、明治・大正時代の岐阜では、建物がついた御殿飾りや、嫁入り道具を模した精巧な雛道具が付属した、豪華な雛人形が流行していました。
三溪が生まれ育った青木家でも、三溪の姉と妹の健やかな成長を祈って、雛祭りを祝っていたことでしょう。明治・大正時代の華やかな雛飾りを紹介します。

御殿飾り雛人形(明治時代)、岐阜市歴史博物館蔵
近代の金華山焼~棚橋雲菴と林晃三
岐阜市金華山周辺で作られた陶器を、金華山焼と総称します。確実に遡れる最も古い作品は、江戸時代後半・天明年間(1781~1788)のことで、幕末から近代にかけても、茶道のみならず詩歌や書画に精通する、いわば文化人による作陶が続けられました。「近代の三茶人」とも称される三溪も、金華山焼を所有し、茶会に用いていました。原三溪と交友のあった棚橋雲菴や林晃三の作品をご紹介します。
